IMG_9326.JPG

樋 澤 坊

樋澤坊の沿革

 樋澤坊は、六老僧の一人であり、身延山の第二祖、佐渡阿闍梨日向上人によって開創され、安立院と号します。

 西谷、現在の清兮寺の地に在りましたが、慶応元年(1865)12月、三門焼失の際に類失してしまい、再建かなわず、深敬園(現、かじか寮)の地に在り、本院19世の法雲院日道上人開創なる法雲坊と合併いたしました。さらに、明治20年3月の仲町の火災により、再び類焼し、祖廟参道右側に在りました円正坊と合併、移転しました。その際、由緒ある名称である樋澤坊を称するようになりましたが、昭和14年、祖廟整備の際、現在地に移転しました。

 身延町の文化財に指定されております山門は、この円正坊のものといわれております。また、玉泉坊、芳春坊をも合併しています。

 このように、合併、移転を繰り返しながらも、日蓮大聖人の御精神を慕い、お給仕を申し上げる心は変わらず伝えられ、現住職、望月海慧は当坊50世になります。

日向上人

 日向上人は、日蓮大聖人が初めて御題目を唱えられた1253年に千葉県尾金村にお生まれになり、13歳で弟子入りされて以降、日蓮大聖人の元で常にお給仕に励まれ、佐渡御配流の雪中三ヵ年も、共に辛苦をなめられて来られました。

 身延山に御入山の後、師匠の道善坊御入滅の報を受けられた日蓮大聖人が追善供養のために「知恩報恩」の大切さを説くためにご執筆された『報恩抄』を携え清澄に赴き墓前に供えて読誦したのが日向上人でした。門下中、最年少ではあられましたが、問答第一と称せられた日向上人であればこそなし得られたことでしょう。

 日蓮大聖人御入滅の後しばらく輪番制で行われていた御廟の守護が廃せられ、住職制が定められた時に、ほとんどの人からの推挙を得て、身延山第二祖の位につかれました。以降、26年間お勤めになられ、後事を日進上人に託されて、御出身地であり、根拠地として上総一帯の教化にあたっていた藻原法華堂(妙光寺、今の藻原寺)に戻られ、正和三年九月三日、六二歳をもって御入滅されました。

 日向上人が日蓮大聖人の法華経の講義を筆録された『日向記』は、日興上人の『御義口伝』とともに、日蓮大聖人の法華経に対するお心を知る手がかりとなっております。

 平成25年(2013)9月には身延山第92世内野日総法主猊下大導師のもと、身延山久遠寺と自坊にて日向上人700遠忌報恩大法要が催されました。